理事長 渡久山博美

医療法人博心会 理事長 渡久山博美のブログです。

てぃーだブログ › 理事長 渡久山博美
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知的障碍者施設で日本中を震撼させる前代未聞の凶悪事件が起きた。2016(平成28)年7月26日の事である。19人の命が奪われ入所者24人、職員2人に重傷を負わせた。
介護現場に携わる者として看過できる単なる事件ではない。偏狂者が犯したこの罪をなんと表現できようか?言葉を失ってしまう。人類史上類まれな、いや類を見ない極悪非道な事件である。
いかなる弁明をしようともこの罪は払拭できるものではない。生まれてくる子供は親を選べず家計を遺伝を選べない。何の罪もない神の子として生を受けあらゆるものにチャレンジし好奇心溢れ豊かな人生を享受できる人権と尊厳を有し未知の世界に遊ぶ輝かしい人生であったろうに。
理不尽に生命を絶たれたことは筆舌に尽くせぬ。あまりに惨い、辛い出来事である。障害があろうと、よしんば無かろうとお互い持ちつ持たれつ協調性のもと助け合い協力していくのが人間の道であろう。
事もあろうに独断と偏見に満ち身勝手極まりなく人様を殺傷した行為は断じて許せない。
「障碍者は不幸を作ることしか出来ません」とか「優生思想に基づく行為である」
とか言うがその思考とか共生とかは人間として、ましては障碍者施設で働く者の考え方とは思えなく程遠い。国はこの事件を精神障碍者による特異な事案と総括し個人に責務を帰し差別構造と優生思想という本質を隠蔽した。自己中心主義で自分さえよければとか他人を思いやる気持ちのない人間を諭す機会を与えなかった国、地域のあり方が問われよう。
人間に貴賤など無い。多少の能力の差、肌の色の違いはあれど皆同じだ。自助、共助、公助の中で助け合って生きているのだ。入所施設信仰は破棄し地域に帰し地域で健常者、障碍者のサークルを醸成する必要がある。多様化した現代、種々の考えを持つ人が増える中、横の連携、繋がりが強調される必要がある。
障碍者の排除、差別意識が社会の底流にあることが今回の忌まわしい事件の根幹である。自分以外の他人様の立場、背景を理解し、その障碍者に寄り添い、共鳴、共生し手を取って歩む社会でありたい。

「人間の真髄」

人間は、大手を振って、お天道様の有難きを恩寵を受け、心安らかに、穏やかに、”日々是好日也”を念頭におき仕事に専念する。このことこそ人間の道ではなかろうか。
肉体的、精神的に不自由な人々の杖となって働く介護の仕事は崇高であると言って過言ではないでしょう。介護しかり、どの仕事も厳しい。しかし、厳しいから挑戦するのではないか?いずれの職種もた易くのほほんと適うものはない。挑戦の中に自己啓発はある。諦めて、そこで終わりだ。環境に生きて、環境を生かすという名言があります。
今ある環境で学び、更なる高みを目指して努力すれば結果は後からついてくる。
今朝の新聞コラムに、新しい言葉を知りました。神対応、塩対応です。お客さんに対する、気配りが細やかだったり、クレームへの応対が行き届いていたりする状態。一方、そっけなかったり、事務的だったりすると塩対応と酷評されるという意味だそう。
幸いにして、当職場には秀でたスタッフが多い。声を掛ければ、話をすれば必ずや得るものがある。理念にも掲げていますようにお互い、切磋琢磨して建設的に向上しようではありませんか。

私は、
常々感謝しておりますのは、当法人の皆さんは、どなたも利用者さん目線で相手の気持ちに寄り添い、その心を、日頃の癖、習わし、希望をチャント把握しておられるこに感心しております。介護は、真に心身機能は勿論のこと、心理学、精神科学、哲学の全てを網羅した総合科学と言えるでしょう。今後も、益々のご活躍を期待しています。

レビー小体認知症

最近、興味深い本に出合った。書名は「老乱」。
筆者は久坂部羊さん。レビー小体認知症を患った主人公を中心に本人の葛藤、家族の煩悶(はんもん)を作家として、専門医として炯眼(けいがん)を通し獲物を射るが如く鋭く描写している。面白くて、面白くて読みだしたら止まらなかった。当の本人は、自身が認知症であることを充分知っている。自分がどんどん駄目になっていく。止まらない。止められない。自分が自分でなくなっていく。なんとも例えようのない恐ろしさ。恐怖に取りつかれ、溶けていく自分。夜も眠れない。症状が悪化してくると妄想を伴うのがレビー小体認知症の特徴。そこに蛇が、虫が這っている。そこに人が立っている。窓から人が覗いている。家人はそのことを否定しようものなら、更に混乱の坩堝に陥る。否定してはいけないんです。本人にはちゃんと見えるんですから。「そうですね」と共感して、手で抑えたり、足で踏んだりして、「ホラ、いなくなったでしょう」と説明してあげること。手の震え、パーキンソン症状も合併します。湯呑に入った水、お茶、コーヒーを零します。正常人から見れば、わざとらしく見えるようですが。
認知症は病名ではなく、病態なのです。いろいろな症候群、症状が絡み合います。介護する対処者は一筋縄ではかないません。「ハイハイ拭きましょうね」「大丈夫ですか?」「熱くなかったですか?」と優しく対応しないと逆上は倍加します。場合によっては、意地悪をして故意に零したりします。アルツハイマー型も脳血管性認知症もしかりです。認知症者は知っているのです。自分が虐められていることを。レビー小体型認知症は特にまだらボケが多いのです。
自分が虐待されていると感じたら仇で返します。いじわるされるといじわるで返します。本の中で様々な事件が克明に記されています。中核症状、周辺症状がはっきりする前にMCI(Mild Cognitive airment:軽度認知障害)が見られます。一にも早く、病院受診を急かせなければ症状が進行しかねない。幸い、当ご家族のお嫁さんは聡明にして賢明な介護に専念する優等生です。脳ドック、健康診断を受けると、いろいろ特典があることを説明、上手に誘導に成功しま
す。只、日々の生活が多少おかしくなった時、鍋を焦がしたり、駐車位置に変容が見られたりした前段階時、ご主人の同意が得られず受診までに逡巡したのは後の祭り。種々の事件が家族を巻き込みます。実態を目の当たりにしているようで読みだしたら止まらなかった。是非お薦めの一冊です。
どの認知症も他人事ではありません。認知症者は475万人、MCIは400万人、明日は我が身かも。今年も、認知症について学びましょう。

 超高齢化の進展に伴い、認知症トラブルが増加している。ここに至るまで家族、社会に貢献し、老後は趣味と好奇心を生かして心豊かで、ハッピーに満ちた日々であるはずなのに。
かつて人間は老いる前に生涯を閉じて黄泉の国へと旅立っていった。今では年を取ってから長生きするのである。衛生思想の向上、図書、マスコミから得る医学、介護知識の高まり、医学、介護技術の発展を背景に。60年ほど前、島での還暦祝いは、三日三晩親族をはじめ隣近所の方々が集い、豚、牛、馬、山羊を潰し、それは盛大でした。今日の米寿祝いにも匹敵するものと思われます。当時の平均年齢は55歳くらいでしたでしょうか?(間違いならご海容の程)。何しろ一大イベントでした。
超高齢化社会は、悦び尊いことですが、同時に、ガン、呼吸循環系、神経系疾患等、多重複合疾患が増えることは心身の老化と共に避け難い問題です。その中に、認知症(認知障害)が潜む。時間、場所、人物誤認、中核、周辺症状を根底にアルツハイマー型、レビー小体型、脳血管障害性、ピック病等は、姿を変え、症状は進んでいく。トラブルを起こす頻度と共に、認知症を介護する家族、施設は全知全能、人知の限りを尽くして手厚い介護を行うも事故、事件は発生、防げないこともある。
今回の徘徊列車事故もしかりである。最高裁の判決要旨は以下の通りです。
妻も長男も法令上の監督義務に当たらない。もっとも、法廷の監督義務に該当しない者でも責任無能力者との身分関係や日常生活の接触状況に照らし、第三者に対する加害行為の防止に向けて責任無能力者の監督を現に行い、その態様が単なる事実上の監督を超えているなど、監督義務を引き受けたとみるべき特段の事情が認められる場合には、衡平の見地から法廷の監督義務を負う者と同視し、その者に民法714条に基づく損害賠償責任を問うことができるとするのが相当である。当該判決によると、誰しも、監督責任者になるのを拒むのではなかろうか?認知症は誰にでも起こりうる、他人事ではない。
明日は、我が身かもしれぬ。監督責任者を決めその個人に責任を負わせるのは酷な話ではないだろうか?社会全体で認知症を見守る、自助、他助、共助、公助の精神、さらには涵養性が必須である。民間保険の創設も選択肢のひとつであろう。

How people learn more of senile dementia?
What would you do different?

好奇心

 人生の第四コーナーを歩きつつ様々なこと(事象)が脳裏をかすめ、時には走り去ります。なかなか整理がつきません。
時間の余裕ができたら、目を通したい、再度読みたい本やエッセイ、新聞の切り抜き等など本棚や周りにころがっています。新聞記者や主筆、編集長の文章や論説などは、専門職とはいえ、卓越した表現力には感服いたします。行雲流水、余禄、金口木舌、編集手帳、よみうり寸評、各社社説に見る、社会情勢の描出、評論は知識、識見の山です。黒井千次さんをはじめ、石原慎太郎、曽野綾子、三浦朱門、斎藤茂吉、佐藤愛子その他多くの作家、随筆家を読破したいのですが時間がありません。
健康寿命を含む、頭脳が迷いなく働くときの流れは、残すところあと十年、生活の自立もそんなところでしょうか?諸行は無常、日々の行いはいつも一定ではありません。何が起こるかは、誰も解りません。般若心経を著わされた松原泰道さんは百歳で逝かれましたがその本は手元に存します。日本の宗教のみならっず、キリスト教にも好奇心が湧きます。熱心なキリスト教徒の友人が居ますが彼から贈られた聖書の拾い読みをしていると日本の宗教との相違、背景の違い、人生観、価値観、ものの考え方に興味を惹かれます。七壱歳にしてこの様な煩悩のなかに埋もれています。
雑多なことの中で、母の言葉を思い出します。「人間の心の中には、もう一人の自分が居る。それは神である。人間は神の子であるからして、心の中のもう一人の自分に背いて行動すると間違いを起こし、時には罪となる」。今でも振り返ったりして頭を垂れています。父の言葉もあります。「自分の人生は、自分で決める」当然の事ながら、限りあるある人生を無駄にすることなく、充実した人生、旅立ちの時は「ありがとう」と言って黄泉に向かいたい。
五年前、六年間下宿を共にし、同じ釜の飯を食った、友人がHTLで他界した。小生もそのキャリアー乍ら人ごとにあらず。昨年、今年も仲間を失った。鴨長明の「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水に非ず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる例いなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。まさしく真理を衝いたお言葉だと思います。
先達のお教えを戴きつつ、心身を鍛え、脳を磨く、正しくそのことは、好奇心を堅持、高める以外にないものと日々、感慨ににふけるこの頃です。

片言隻語

パラリンピックが賑わっています。連日、日本人(沖縄人を含む)選手の活躍ぶりが大きく報道されています。先に終了したオリンピックより多少、認識が浅かったこともあり、その歴史を簡素乍ら調べてみました。
起源は、1948年7月、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で開かれたアーチェリイ大会が最初のようです。第二次大戦で負傷した兵士達のリハビリを目的としてグットマン医師が発案しました。
現在の開催規模は22競技528種目に増えています。日本では影に隠れた大会ですが、外国ではとても盛んに取り組まれているようです。
事故に依る身体障害や生来の微小脳機能低下を持つ方々のリハ治療対策に差異があるように思えます。日本でも行政、地域社会に於いてより一層の取り組みが喫緊の課題であります。障害はあっても何ら不幸ではありません。人間、誰しも完全ではなく不完全です。何らかの障害は誰にもあるものです。残存能力を最大限発揮して生きることこそ真の意味があるのではないでしょうか?
紀元1~2世紀の哲学者、エピクテトスは片足が不自由だった。だが彼は、自身をオリンピア祭のレスリング史上最強の覇者だったミロンになぞらえ、「私は、ミロンではない、しかし体をおろそかにしない。」という。
レスリングの競技者たちも自らが及ばないと知りつつも鍛錬を怠らない。哲学者として、ソクラテスを信奉するエピクテトスは自らの運命を呪いはかなんでいたが、時間とともに享受し、それを超える高みに向けた努力を怠らない人の心を称揚したという。
パラリンピックのマークは青、赤、緑だという。緑色が配色されていることに悦びを感じました。
エメロードとは、エメラルドグリーン ロードの短縮表現です。"emerald green road"を"EMEROAD"(みどりの道)としました。デザインされた皆さんに感謝です。緑には、安心、安寧、心の安らぎ、心の癒し、和やか、緑児、緑の黒髪、緑の日、"an emerald wedding"などハッピーなitemがあります。
9月は敬老の月。長年、ご苦労された先輩のかたがたに敬意を表し、感謝の気持ちいっぱいでお祝いしましょう。緑の気持ちで。

信号無視、飛び出し、交通違反が目立ちます。高齢者の交通死亡事故があとを絶ちません。
警察庁の纏めによると、昨年度交通事故死者は、4117人で前年より4人増え15年ぶりに昨年を上回った。この背景を検討したところ、道路横断中の死者1140人のうち、663人(68.3%)のケースで交通違反が確認された。このうち約8割の509人は高齢者で、違反の内容別では、車両の直前直後横断が20%で212人、横断歩道以外の横断が12%で120人、信号無視が8%で83人、斜め横断が3%で32人、横断禁止場所横断2%、その他の違反4%となっている。警察庁交通局幹部は、身体機能の低下で、車の接近に気ずかずはねられるケースや、渡り切れると思って横断歩道を渡りだし、奥の車線で左から来た車にはねられるケースが目立つという。
身体機能の低下もさることながら、認知症も伴って事故が起こっているのではないかと想像します。高齢者はご自身の体力を過信する傾向にあります。前期高齢者の小生でもよくあることです。若い頃できたことを憶えているもので今、現在でも過去になしたことを可能だと認識しているのです。自身の体力の低下に自覚がなく、時に自覚を避けているかの如く行動することさえもあるのです。ロコモーティブシンドロームなんてのはとっくに卒業してます。速足歩き、スタスタと階段の昇降に自由がききません。還暦まではさほど感じなかったことが漸次出現して参りました。老いは駆け足でくるものなんですね。
交通事故にあわれた高齢者の皆様も事故の背景には同様なもしくは似たような心身反応があったのでは?と推察します。年齢とともに低下していく身体、認知機能は避けてとうることはできません。それでも、完全に諦めることは禁物です。老いは止めることは不可能でも、受容し共生して老後を楽しむことは充分可能です。デイケア、デイサービスで多くの先輩高齢者を見ておりますとそのことを強く感じます。「老いは迎えて打て、老いてこそ人生」と示唆して下さる作家の助言、アドバイスを参考に身体を鍛え、脳を磨くことを自他共に堅忍していく覚悟です。
高齢化の影響で交通事故死者に占める高齢者の割合は、54.6%です。法令違反の高齢歩行者を取り締まれないか?との意見もありますが、公安委員会で横断歩道線引き色彩を黄色、赤色に更に線幅を広げるとかの工夫はないでしょうか?音声装置も有効では?知恵を絞って高齢者の交通事故死対策を練る必要を痛切に感じます。

箴言 「腹八分」

普遍性をもつ格言です。年はとっても、この金言をご自身の健康の秘
訣とし、実行しておられる102歳の利用者さまがおられます。矍鑠
して、とても102歳には見えません。
過日、机上で何やら一生懸命に書き物をしておられました。そーっと近づいても気づかないご様子です。塗り絵と計算問題ドリルでした。脇目もふらず凄い集中力です。若かりし頃は、花形運動選手で活躍されたそうです。ご自分で編み出した健康エキササイズを今でも欠かさないと話したい好奇心に溢れておられます。
頭では解っている、理解してる、しかし、実際に行うは、難行苦行です。
小生の如く、”病気は他人のもの、健康は自分のもの”と自分だけは大丈夫と思ってる人間にはとても真似できません。さりとて、この方の爪の垢でも煎じて飲まねばなりません。
食べたいと思う食物は無くヤーサして生き延びて今日に至っておられるのです。クラスメートのアメリカ人は、授業中しょっちゅうスナックをボリボリ齧っています。彼らの習慣でしょうか?教授をはじめ飲んだり食ったり大忙しです。文化の違いとはいえ奇異な感じを受けます。家庭でもその様です。TVでスポーツ、ソープドラマを観ながら4時間、5時間、バケツ一杯のポテトを抱え食い続けるのだそうです。実際に、アメリカの方から聞きました。結果、体重減を目的にジム通いを強いられます。フィットネスクラブが大流行とは何とも滑稽な話です。
腹八分は、第二の脳といわれる胃腸腹腔神経叢に関連している様です。
長命の方には、「長寿遺伝子」が有るとのこと。長寿遺伝子は、腹八分の生活、空腹時に増えるという、研究はアメリカ、カリフォルニアの成績です。ネズミで実験済み。そういうことから憶測ですが、現在、沖縄で平均寿命、健康寿命の好成績を支えているのは、かつて、食糧難に苦労された先輩方の努力の賜物であろうかと考えたりします。

半年を振り返って

この半年を一生懸命生きただろうか?有限なる生命をいとおしく思いつつ自分を大事にして生きただろうか?心も身体も健やかだっただろうか?自問自答してみる。
我々の仕事は、ディスアビリティーチャレンジャー(disability challenger.ハンディキャップ(handicap)とは言わない)の手助けをすること。障害者という言葉はどうもネガティブだ。ディスアビリティーをもっていようが、生きて、生きて生き抜く自分の夢に向かって生きているのだ。認知障害があっても心は病んでいない。認知症は細胞のダメージであって心のダメージではない。心と脳細胞の関係を茂木健一郎氏が言うが、五感六感は脳細胞の動きで感じるものだが心はもっと奥深く根ざし知情意を司るものであろう。認知症の人は何を想って生きているのであろうか?認知スケールで完全に測れるのだろうか?認知症という病の実態は、その人の生きてきた人間史の集大成であると思われる。
遺伝子プラス環境は人間形成に大いに関係するが加えてその人間が何を学び知識から智慧を得て生きてきたのか?に起因しているのではなかろうか?ピンピンコロリは理想的な終焉である。が、認知障害、身体障害を持とうと燃え尽きるまで死につくまでチャレンジだ!病と闘って死ぬのだ!ポジティブに。ネガティブは駄目だ。只、食うて、寝て、出すだけではつまらない人生だ。人生、無為に過ごしているとやる気が無くなり終いにはチャレンジ精神を失うだろう。文字を読み、他人様の話を聞き考え反芻して己の糧となす。他力本願ではなく自力本願で生きんくことが幸福な人生ではなかろうか?「ワシダレ」、「アナタダレ」、「ココハドコ」などという見当識、認知障害。今しがた食べたことをしばらくすると忘れる記憶障害があろうとも完全に四六時中ボケているのではない。瞬時に閃く時もあるのだ。稲妻の如く。自分自身が痴呆ていることを知っているのです。怯えているのです。不安です。でも、チャレンジしているのです。助けましょう。力になってあげましょう。手を差し伸べて、眼を離さず。「大丈夫、何時も側に居て見守っているよ」と話して下さい。
認知障害のディスアビリティーは肉体的ディスアビリティーを遥かに凌駕しているものと思われます。癌にとりつかれたチャレンジャーよりも実態は惨いものです。いちるの望みを託して一生懸命チャレンジしている利用者の方を日夜支えていらっしゃる皆様に感謝します。

片言隻語

今に始まったことではないのですが、この頃、とりわけその兆候が激しくなり、まるで坂道を転げ落ちていくようです。書き留めておく必要に迫られ、キーを叩いているところです。
もしかして、人間はこのようにして老いていくものだと皆様にも感じとって戴き、参考になればと思ったりしております。そのことが毎日を愛おしく感じ、更に、気概が高まれば、望外の悦びとするところであります。般若心経に心を打たれ、多くの作家の門を叩き人さまの人生の生き様を学びつつ来たのですが。身体の各部所、神経系統、関節運動、視覚をはじめとする五感、全ゆる箇所に衰えを感じ、vulnerableの域です。特に、細かい動作になると自身、おかしくなる程、失敗の連続です。
例えば、食事中、ものをよく落としては嘲笑を受けております。神経細胞シナプス連絡網の破綻が原因とは知ってはいても認めたくないような卑怯性が頭をもたげます。ポロポロと箸から、時に、薬のtab.が転がって傍にあるテーブルの奥深くに逃げ込んだりすると追いかけて、懐中電灯を引き出しから取り出し、悪戦苦闘の末、敵もさるもの捜索を諦めざるを得ないことしばしばです。MCI(Mild Cognitive Impairment)のサインでありましょう。
作家の黒井千次さんはプロだけあって、きめ細かに、微に入り細に入り、老いらくの記、老いの道中の情景を具に浮かびあがらせておられます。成程、なるほどと頷き乍ら、他人事のように観ておりましたが、近頃は違います。直に、実際に同様な事象が肌身に沁みて感じられます。只、その中でも、ネガティブばかりではありません。それは、「老活」ということを思いつきました。
入所、通所ご利用のご高齢の方々、拝見してるだけでも勉強になります。不必要、余計をしゃべらない。寡黙にして的を得ていらっしゃることに感銘をうけます。そういう好かれるお年寄りになれればいいなーと想うこの頃です。
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